千葉地方裁判所館山支部 昭和43年(タ)4号 判決 1969年3月28日
主文
昭和四三年三月一八日館山市長宛届出られた本籍館山市北条一、九九四番地亡松本ようと被告両名との養子縁組は無効であることを確認する。
訴訟費用は被告等の負担とする。
事実
一、原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、請求の原因並びに主張として、
(一) 原告は訴外亡松本ようの実弟である。被告松本文代は同訴外人の内縁の夫訴外長谷川文五郎の孫であり、被告松本正次は被告文代の夫である。
(二) 昭和四三年三月一八日午後亡松本ようと被告両名との養子縁組届が館山市長に提出され、即日受理された。
(三) しかし、ようは昭和四三年三月一八日午前〇時頃脳溢血にて倒れ、三三時間余昏睡状態を続け、同月一九日午前九時二〇分死亡した。前記養子縁組届は、被告文代の母訴外長谷川寿代が、松本ようが脳溢血のため危篤に陥つた機会に乗じ、同月一八日午後四時頃、館山市役所に出頭し、市吏員に縁組届の代書を依頼し、それに寿代が一括持参した印鑑を使用して届出本人並びに証人の氏名の下に捺印し、即時市長に提出したもので、松本ようの意思によるものではない。松本ようと被告等との間には養子縁組についての話合いはなく、又縁組届出の意思を表示したことはない。このように、本件養子縁組は、縁組の意思も、届出意思も、共に欠くもので、無効である。
(四) 仮りに、当事者間に養子縁組の話があつたとしても、縁組届は身分行為たる養子縁組の唯一の純然たる表示形式である。
当事者が、縁組意思によつて届書を作成し、更に届出意思によつて縁組届を市長に提出するのでなければ、縁組は無効である。縁組意思及び届出意思はそれぞれの行為の当事者に存在することを要する。縁組届が有効であるためには届出(受理)当事当事者本人が意思能力を有することが必要である。しかるに、前記のとおり、松本ようは三月一八日午前〇時頃倒れて意識を失い、昏睡状態を続けたまゝ翌一九日午前九時二〇分死亡したもので、縁組届が市役所へ提出された三月一八日午後には意識を消失し、意思能力を失つていたものであるからこの縁組は無効である。
(五) 松本ようの実弟である原告はじめ血縁の者は、松本ようと被告等との養子縁組の話は全く聞いたことはなく、本訴の被告等の準備書面によつてはじめて知つたものである。縁組届をしたことも、原告等血縁者は知らされていなかつた。松本ようは、生前原告等血縁者に対し、被告等と縁組をする意向を洩したことはなく、むしろ長谷川家の者を嫌つて養子にはしないと云つていた。松本ようが病に倒れても、被告等は全然看病したこともなく、葬儀等も他の者が行い、養子らしい行動は何一つしていない。
(六) 以上のとおり、昭和四三年三月一八日館山市長に届出られた訴外亡松本ようと被告等との養子縁組は無効であるから、その確認を求める。
と述べ、
証拠(省略)
二、被告等訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、原告の請求の原因に対する答弁並びに主張として、
(一) 原告の請求原因中、第一、二項の事実及び第三項中、ようが脳溢血で倒れ、昭和四三年三月一九日午前九時二〇分死亡したことは認めるが、その余の事実は否認する。第五項は否認、第四、六項は争う。
(二) 亡松本ようの内縁の夫訴外長谷川文五郎は、明治四一年長谷川家の婿養子に入つたが、大正八年頃から松本ようと懇になり、その関係は続いていた。一方文五郎と妻との間には源吾外三名の男子が出生した。大正一〇年文五郎の妻が死亡後は、文五郎と松本ようは公然同棲していたが、長谷川家の人々は松本ようの長谷川家への入籍を許さなかつた。そのため、文五郎は長谷川家の人々と別居し、松本ようと二人で同棲していた。このような事情で、松本ようと文五郎とは内縁関係で過して来たが、段々老令に向つて来て、面倒をみて貰う者を必要としたので、松本ようは昭和三一年九月七日実弟である原告の四女訴外金木シゲ子と養子縁組をしたが、その後事情があり、両者間に感情のもつれが生じ、昭和三四年六月二六日協議離縁をした。その後仲に入る人があり、再び昭和三七年一二月一九日養子縁組をしたが、感情のもつれは解けず、昭和三九年一月二〇日再び協議離縁をした。その後松本ようは昭和四一年末に姪の佐野一江を養子に迎えることに話が決まり、昭和四二年に入り一江は松本ようと同居をはじめたが、三ケ月位で、末だ縁組届をしないうちに、実家へ帰つてしまつた。次に昭和四二年に文五郎の長男源吾の二女陽子を養子にすることになり、昭和四二年一〇月頃から同居をはじめたが、末だ届を出さない同年一一月初頃実家に帰つてしまつた。そこで、松本ようは、源吾の長女夫婦である被告等を養子とすることを望み、昭和四二年一一月四日頃から交渉をはじめ、一二月下旬には被告等も縁組を承諾し、昭和四三年二月二三日松本ようと被告等の養子縁組が正式に決定した。その頃被告文代は出産予定であり、続いて出産等もあり、縁組届が遅れていた。
(三) 松本ようは、昭和四三年三月一七日夜病いで倒れたが、その時文五郎に対し、被告等との養子縁組届を催促したので、文五郎は被告文代の母(源吾の妻)寿代に届出を促がし、寿代は三月一八日市役所へ縁組届をしたものである。被告等は勿論この届出を承知していたものである。このように、松本ようと被告等との縁組は既に決定していたが、只届出が遅れていたものを、三月一八日になつて届出をしたものであり、有効な縁組である。よつて、原告の請求は失当である。
と述べ、
証拠(省略)